▼(*^_^*)さん:
人々の不幸は、人を信じることから始まる!!
全てを疑え!!
などとは言いますが。
今回の件は、どうも相手が悪かったようですので、軽く流すこととして、(ただし、頭の片隅においておくことを忘れずにね。)
所詮は出会い系サイトなど信用できないと嘆かずに
まあ!聞いてください。
そこで、
人を信じること」について考えてみようと思います。
「信じること」については以前別な相談者の悩みで、書いたことがありますが、
今回は君に「人」を信じることを中心にいろいろ考え直してみたいと思います。
信じることができずに、人を疑ってみたり、詮索したり束縛しようとしたり、嫉妬したり、裏切られるのではないかと怖れたり、・・・。人を信じられないだけのために、イヤな思いをしてしまうことがあります。
また、人間や社会に対する不信が不安となり、幸せに暮らせない原因になってしまうこともあります。
そもそも「信じる」とはどういうことでしょうか?
「本当に信じる」ことは可能なのでしょうか?
どうしたら信じることができるのでしょうか?
そこで、
「人を信じられない」ことは「疑う」ことにつながることが多いと思います。
裏切られた経験から、人を疑いやすくなった、人づきあいに慎重になった、人との関わりに臆病ったというような人もいます。
このようなことは自分にとってけしていいことではないと思います。
疑うことでダマされないというメリットはあるのかもしれません。でも、それは頭のほんの片隅にあれば役に立つのではないでしょうか。
疑うことのデメリットのほうが大きいような気がします。まず、疑うことでイヤな気もちになります。
人を疑う自分に嫌悪感をもってしまう人もいます。
疑うことで関係がよくなるということはないんじゃないでしょうか。強い疑念は自分の言動に何かしら現れ、つきあいに消極的になったり、対応がぎくしゃくしたりすることもあるでしょう。
そういうものが相手にも伝わり、関係が悪くなる可能性のほうが高いと思います。
露骨な表現をしてしまえば、相手も疑われていることを感じてしまいます。疑われた相手がどういう気もちになるか、自分が疑われた場合を考えてみればわかると思います。
ふと人を疑うことを考えてしまうのはしかたがないと思います。そんな時には、「いいことある?」と自問してみるといいと思います。
そして、「そんなことない」と自分の疑念をうち消すか、「(そうかもしれないけど)信じよう」と心に決めるかすればいいのだと思います。
また、「裏切られた」という言葉は使わないほうがいいと思います。
「疑う」のと「信じる」のと、どちらのほうが自分にとって幸せなのでしょうか?
大切にしたい相手・関係なら、信じたほうがいいのではないでしょうか。
「信じること」の1つの意味は、「疑わない(疑い続けない)」ということだと思います。