三島由起夫の「近代能楽集」に収められている作品にこんなこふうに書かれている
「何かにつけて私がきらひなのは、節度をしらぬ人間である。一寸気をゆるすと、
膝にのぼってくる、顔に手をかける、頬っぺたを舐めてくる、そして愛されていると信じ切っている犬のやうな人間である。女にはよくこんなのがいるが、男
でもめづらしくない。」
三島由起夫 「(私のきらひな人)」
私は三島由起夫が好きで、彼の作品を愛読しているのですが、
彼の作品を読むと、愛の試練についていろいろ論駁していて興味深い。
君もそうだと思うが、ひとを愛すると、その人に「気に入られよう」と全身全霊で
努めるものである。
こうした欲求が全くないとき、それは厳密には愛ではない。
「あのひとを愛しているだけでいい」というセリフはよく耳にするが
それは相手が自分を愛し返さないことを完璧に知った後の開き直りにすぎない。
君もひそかに思っているのであろうが、愛して者に愛し返されることを望まない者
があろうか。そういう者は、実は相手を愛しているのではない。
つまり、私が言いたいのは、
愛は双方向的であり、一方的な愛は成立しないということです。
君は、愛されたい・愛されたいと思うのではあるが、愛される者ではないから
反射的に愛されることにずいぶん情熱を注ぐ。
君も理解していることと思うが、「愛すること」それはプライドを捨てることです。
愛してしまったがゆえに、相手に従わなくてはならず、その屈辱を埋めあわせる
自己防衛の姿勢、 要するにその芯はマゾヒステックなのです。
私が感じるのに、君は愛される体験があまりなかったような気がする(間違っていたらゴメンね!)だからわずかに愛されることがあると、そのチャンスを逃すまいと、猛烈な自己幻想に陥るのです。
これらが高じると、愛されないことを知るや、その耐えがたさゆえに、彼や世間に対し復讐の鬼と化してしまうのです。
いまだに君は愛されていないという恐怖心は強いなのだろうと類推しますが
ここで、少し距離をおいて考えていただきたいのですが、
彼は、君のような情熱的な性格と違って愛に対して淡泊なのではないでしょうか?
であれば、君が愛に淡泊な者に向かっていくら愛を期待してもいかにも虚しい、
彼は君に愛を求めていないのだから、いかなる冷たい仕打ちを君が受けたとしても
彼は気づかないのだから、多分彼は動揺していないのだと思う。
しかし君はこのまま引き下がることは負けを認めることであるから
君のプライドが許さない ゆえに悩んでいるわけですね。
しかし世の中には彼のような、特別もてないわけではないが、愛することが自然に
できない男もいるわけです、彼はおそらく愛という関係を他人と築けない苦しみ・
愛されてもそれに応じられない苦しみに喘いでいるのかもしれません。
その底には自己愛というやりきれない怪物が潜んでいる
要するに愛に希薄なひとは以外とゴマンといるものです。
世間の大多数は、ひとを愛することは当然であり、この能力を欠如したものを人間のかたちをした怪物のように忌み嫌う。
どんなに学力があっても・どんなに仕事ができても、ひとを愛することができなければ虫けら同然だという論理を振り回す。
他方愛することさえができれば、いかなる欠点も帳消しにするほど立派などと
考える。
この思い込みはたいそう強いので、これに疑問を付すことすら難しい。
これを問題にすることすら嫌がられる。
私はここでまた肩を落とすのである。
世の中には多種多様の、さまざまなひとがいて、異を唱えることに
何の不思議がないのに
世間の鈍感なひとたちは、大多数からすこしでも外れると、その見えざる言葉の暴力と圧殺で、その体制に引き込もうとする。そこで私は愕然とするのです。
ある日「愛について」語るテレビ番組で
ある著名人が「こいつのためなら死んでもいいと思ったことがある人は」
という質問をなげかけた、
回答の数は忘れたが、その後の その著名人の発言に私は大きな衝撃を受けた。
彼は「そんな経験のない奴は自殺してしまったほうがいい!」と吐き捨てるように
言ったのであるから。
その会場で彼の発言に反論する者がいなかった。
彼の発言が何ら問題にならなかったのは 現代日本を象徴的な事態に思いました。
なぜかというと、愛以外の何をもってきても 現代日本人はこうは言わないような
気がするからである。
学問を知らない者は自殺したほうがいい・ひきこもっている奴は自殺したほうがいい・性転換手術をしたい奴なんて自殺したほうがいい などなどと試みにテレビで
発言すれば、ただでは済まないはずである。
だが!愛だけは、あれだけの超難関なテレビという検閲機関でも スイっと通って
しまうのです。
はじめから告白するが「人を愛するとは」どういうことかわからない。
私もいままで多少の男を愛してきた
それがいかなる種類の愛に属するのかよくわからないというか、さらに私は懐疑的で
私が愛とおもってきたもの・体験してきたものは、実は愛ではなく 愛に似たほかの何かではないかとう疑いは消せません。
君の彼もそういう自分のなかの深いところで巣食う「自己愛」のおぞましさに悲鳴をあげているのではないかと 私と重ね合わせ感じています。
エロス的な同性愛とはおそらくそのような性質のものだと思うし、その域を超えないものだとかんじるのです。
彼がホモフォビアであるなら・そしてそれを確認できるなら、「答え」はでているのですが、
どうなのでしょうか?
彼がホモフォビアであると思うのは私の思い過ごしで、取り越し苦労であればいいのですがと!
ただ願うばかりです。