▼たけぴぃさん:
プライバシーをさらけだした相手との関係には
親密性があるが、同時にお互いを理解しすぎた為に
メールでの言葉の暴力性(そっけない無意味で会話が続かないような独り言
メール。)や
相手を知った後もこんな奴とは思わなかったギャップにしらけて
思い描いていた形とは違ったりすると相手を跳ね返してしまうこと
(顔画像で納得いくまで探し求める事や、自分の都合で相手を巻き込むこと)
でまた次を探してしまうことになって出会そのものを
神聖化する傾向があるそうです。
そういう人は個の思いが強く
暴力性をはらんでいる上に幼さも残ると思います。
また自分を相手と共有するものをもっていないため、プライベートを
どんどん露出するような出来事も起こりやすくなるといえます。
つまり相手がいなく、自分ひとりで苦しんでいる例
哲学者のルソーの言葉
もう一方は
家族や学校など、土台となる枠組みの中で
共有していること=友達、一緒に昼飯を食べることで、友達らしさや
食べることを共有している事は、自分と相手が同じ”食べること”や
友達らしさを気遣ったり”思い”を共有している
学校や家庭=共同体の中で共有することがあるから
お互いを理解できること=プライバシーをさらけださないで
相手との関係を図ることが=つかず離れずの関係が
うまくいくこと。
哲学者ロックの言葉
きっとキモチを断られた途端
相手の思いが自分の中で共有していて
繋ぎ止めていた感情が一時的に絶たれた溢れた涙だと思います。
自分より相手と思いを共存していたから安心していたのでしょうね
好きがどういうことなのかがわからなかったり
安心できるからラブなのか?
と自問自答している人は多いと思いますが、それは、友愛ではないで
しょうか?