世の中に意味のないものなんて一つもないんだよ。っと言う人がいる。
でも、ボクは逆に考えるんだ。
最初から意味のあるものなんて一つもない、けれど、ヒトはどんなものでも意味を見出すことができるんじゃないか。
ヒトが十人十色であるように、意味も同じように一人一人違っていて、同じ事柄、同じ人でも、受け取る時の状況によって変化したり、複数もったりする。それこそ千差万別なんだ。
例えば、『学校の意味』を考えてみると、高学歴通っていい会社に勤めれば幸せになれると考えた幸福主義者であれば、学校は良い会社に入って幸せになるための踏み台とした意味を見出すかもしれない。
また、教師であれば学校は子供を健全に育くんでゆくのに必要だとか、学問の素晴らしさを教得る為にうってつけの場であるとか、給料をもらうそれだけの場であるかもしれない。
国家の舵取りを担う人にとっては、経済を支えるための労働生産原としてとらえているかもしれない。
違いはあるけれど、意味を見出した人々がいるから、学校は存在しているんだと思う。
もしも、誰一人学校に意味を見出すことができなかったら、学校は存在を維持できなくなる、死ぬと思う。
人間は生きることに意味を見出すことができなくても、生存本能が支えてくれるから、それだけでは死なない。
死ぬことに意味を見出すヒトもいる、現実からの逃避や、幸福の世界へ行くためとか、保険で家族を養おうとか。
でも、死ぬこと自体に意味を見出す人はあまり見かけない。殆どが、自殺は目的を達成する為の手段として用いられているんだ。
学校もそれ単体では意味がなく、手段として使われることで初めて意味が生まれるんだ。
生きることも同じことなんじゃないかな?
ボクはみんながどんな生きる意味を見出したか知らない、だから、ボク自身が生きる意味について話すね。
やりたいことがあるんだ、それがどんなに苦しくても、嫌なことしかなくても、死ぬくらい危険なことであっても構わない。
もちろん、それは死んだら成し遂げることはできない。
だから死ねない、達成する為にボクは生き続けている。
それが、ボクの生きる意味七割。
最初からそんな志があった訳じゃないよ、様々な経験を積んでいくうちに見えてきたんだ。
学生だった頃は学校の意味を見出すことができなくても、大人になれば見出せるかもしれない。
逆に、幼少の頃は意味があると思っていたものが、大人になるにつれて無意味なものになっていくこともある。
意味を見つけるのにも、見失うにも、それ相応の時間がかかる。
ただ、何もしないと大した変化は望めないと思う。
ありきたりだけど、生きる意味を見つける為に生きてみるなんてのもアリだと思うよ。
そうすればきっと、あのとき死ななくてよかった〜って思える日が来るかもしれないよ。
ただ、あのとき死ねばよかった〜って後悔する日が来ないともいえないから、行動は慎重にね。
君もいつか見つけられるといいね、粗末な説明だけど参考になればいいな。