「うぁ〜〜!!もうだめだっ!!」
顕微鏡から目を離し、シャーレを机に置く。
そこには、結果を残せなかったシャーレたちが、また仲間が来たぞと言わんばかりに待ち構えていた。
「はぁ・・・」
何か月、同じ作業しているんだか・・・。
大学で生物学を学んでいたため、そのまま院に上がり「糖」の研究をして1年半。こんなにも孤独と地道な戦いだとは思わなかった。学部生の頃が懐かしい。
そもそも、学部4年だけでよかったものの就職難もあり、流れで院にあがってしまったとは間違っても声に出してはならない。
特に、「研究が恋人です!」みたいなこの研究室では、間違っても。。。
「ダメだ、今日は。もう帰る!!」
「いや、ユーリがダメなのはいつもだろ。」
いつも同じネルシャツ姿に白衣を着ている同期が座椅子の足が折れるくらいの巨漢を横に揺らしながら言ってきた。
「悪かったな!お前はどうなの?」
「まあまあ順調。卒業は確実かな」
悪い奴ではないし、わざと言っているのは分かるのだが、毎回一言多い。そして、その巨漢のせいで嫌味がよりリアルに聞こえる。
「どうだ、金曜だし飲みにでも行くか?」
「あー、今日金曜だっけ。全然曜日感覚なかったわ。てか今日バイトだから無理〜。わり〜」
「なんだよ〜。まあ、いいや。おつかれさん!」
俺は少し早いが、バイトに向け研究室を出ることにした。
外に出るといつもより風が強いことに気づく。
門で何やらベニヤ板に看板を取り付けている学部生の軍団とすれ違った。
「これ、大丈夫かな〜。飛ばされそうじゃない?」
「確かに、今回の台風ヤバいらしいよ〜」
「え〜、前回も10年に一度とかって言ってたのに!アタシ、やっぱり先輩に来週設置できないか聞いてくる!」
看板を見るとそこには「収穫祭」の文字が見えた。
・・・そっか、もうそんな季節か。
学部生の時は、部活のブースを出していたので毎年準備から盛り上がっていたが、院生になるとそうもいかない。
文化祭の日も研究室に籠ってる身からすれば、ただの騒音になる。
そんなことよりも気になることをあの子達は言っていた。
そう、台風。
今週、ほとんどテレビを見ていなかった(もちろん研究のせい)ので、台風が近づいているなんて知らなかった。しかも、そんなにも勢力が強いなんて。
ただでさえ客が少ないうちの喫茶店であるので、台風なんてきたら閑古鳥状態だ。
「あ〜、今日お客さんくるかな〜〜」
そんなことをぼやきながら、チャリに乗るとバイト先へと向かった。
学部生のころから働いている「Cafe けやき」は、大学と家のちょうど中間地点にあり、どちらからもチャリで10分もかからない。
その利便性からずっと続けているし、院生になってからは研究であまり入れないもののマスターがシフトの融通を利かせてくれているおかげで今でも続けられている。
ほぼ趣味でやっているようなバイトだ。
なので、客が来ないとか本来であれば文句は言えない。
「おはようございま〜す」
ドアを開けるとコップを拭いていたマスターがこちらを見た。
「だから、ユーリ。もう夕方なんだから、その挨拶どうにかならないか?」
「すみません、なんかこの挨拶が一番しっくりきてて」
そんな会話をしながら、裏手に入り着替え始める。
といっても、ただ黒いエプロンをかけるだけであるが。
と、その時、けやきの電話がなった。いまどき珍しい黒電話で、これもアンティーク好きなマスターの趣味。
「はい、カフェけやきです。
あー、坂口さん。お世話になっています。
えー、はい、台風ですよね、私も心配ですが、うちの畑はこの前収穫したので大丈夫です。ご心配ありがとうございます。
坂口さんちは、、、え、マルチが飛んでるんですか、それはまずいですね。
え、今からですか。私も手伝いますよ!
はい、お店ですか?」
マスターがこちらをチラッと見る。
「えー、大丈夫です。
こんな天気じゃあお客も少ないので。
はい、今から支度して伺いますので、はい。失礼します」
チリン。
受話器を置いたマスターがこちらを見た。
嫌な予感はほぼ的中であった。
「ユーリ、もうわかっていると思うけど、お店頼むね」
「いや、分かってないんですけど・・・・」
そう言いつつもマスターはエプロンをはずし、レインウエアを着始めた。
「坂口さんちの、ジャガイモのマルチ(土を覆うビニールのこと)がこの風で飛んでしまったらしく、台風来る前に貼り直すって言ってるから、私手伝いにいってくるよ。終わったらすぐに戻るから」
坂口さんというのは、このお店の常連さんで、ここらへんじゃ有名な地主の方だ。マスターは家庭菜園が趣味で、依然その話を坂口さんに話したところ、余っている畑があるから貸してやる、とのことで坂口さんのご厚意で畑を借りることになった。
そのこともあり、坂口さんの畑の手伝いをマスターは時々している。
今日もその関係で、手伝いに行く羽目になってしまったらしい。タダで借りるのも考えものである。
お留守番を頼まれたものの、マスター不在の店を負かされるのは2回目である。前回はマスターの娘さんが急に具合が悪くなり、任された。
本当は「こんな天気だし、お店閉じちゃえば、どうですか」と言いたいところであるが、「定休日と病気以外は店を休まない」とのポリシーがあるのを知っているので、言うのをこらえ承諾することにした。
「・・・分かりました。今回の台風の勢力、前回より強いみたいなので気を付けてくださいね」
「なんかあったら携帯鳴らしてね。じゃあ、いってくる。よろしくな」
カランカラン。
ドアを開け、外に出ていくマスターをカウンターごしに見送った。
マスターが去った店内は、BGMの音がより大きく感じた。
「とは言ったものの、本当に今日お客さん来るのかな・・・」
カウンターから窓を眺めると、先ほどよりも明らかに風の勢いが強くなっていた。
そんな景色を見ていたら、ふと思いだしたことがった。
あの人も、こんな日に来たよな・・・・。
そう、1ヶ月ほど前の大雨の日に訪れて、入るやいなや店内をジーっと見つめていたあの変わった人。。。
BGMを聞きながら、彼が見ていたアンティークの古時計を眺めてみた。
そういえば、最近こないよな。
台風の襲来に、淡い期待を持ちながら、外からは風に揺られて木の葉が重なり合う音が聞こえた。