最近、ゲイに対して寛容になったとか、よく言いますけれども、何となく違和感を覚えます。第一、寛容という言葉自体、許すというニュアンスがあり、もともと駄目であったものを良しとすると云う感情が暗に入っているので、もしかしたらまた違った言葉の方が適切なのかも知れませんが。
マンガやお笑いなどで、よくゲイに対する表現が差別であると叫ばれていた、十五年ほど前と比べて、あまり声高らかに反対運動が行われていると聞かれなくなりました。ジェンダーの戸棚へ行っても特に目新しい本が出ている訳でもありません。それは、『ゲイ(同性愛者一般というべきでしょうか)の解放』として行われてきた運動の収束であり、新しく『ゲイの認識』という運動に移行しているからかも知れません。
マンガが良い例であり、以前と比べて、ゲイであることを笑いのネタとして使用するという表現ではなく、一つのタイプとして扱われて来ていることからも、わかります。ただし、それらは良くゲイと云うよりも「女」を意識しているように見受けられ、必ずしも同性愛として真正面からとらえている人は少ないということも事実ではあるでしょう。
一つ例としまして、マンガ家のよしながふみさんがモーニングという青年誌で「きのう何食べた?」というマンガを書いています。よしながふみさんはいわゆるボーイズラブの出身ですが、以前から等身大の「ゲイ」(敢えて括弧付きにしました)を描いている珍しい作家さんで、他のマンガ家さんとは少し肌ざわりが違います。このような作品がモーニングという、それなりに大手の雑誌に掲載されていると云うことからも、やはり以前とは同性愛に対する感覚というものが違ってきていると云えるのではないでしょうか。
また、何故、同性を好きになるのか、という理由について、好きな人がたまたま同性だった、と云う認識のパターンが増えてきているように思います。これに関しては、新しいゲイ認識として受け入れられているように感じますし、また、非常に異性愛者の人に理解しやすい理由のためか、非常にカミング・アウト時に使いやすいフレエズであると思います。しかし、この認識については一つ大きな欠点、やはり異性が好きであると云うことが前提だ、と云う意識があるため後ほど言及できたらと思います。しかし、この認識が、ジェンダーを揺るがし、異性愛だとかたくなに縛っていた「性論理(造語ですいません。生物的・文化的あるいは心理的に見られる「性」に対する各個人の認識、と云う程度に理解して下さい)」
・・・・・・長くなりました。すいません。まだ、本論に入っていませんが、一端、ここでやめさせていただきます。