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映画「愛の言霊」完成披露試写会の記事からの引用です。
『仮面ライダーカブト」の徳山秀典(25)と「轟轟戦隊ボウケンジャー」の齋藤ヤスカ(20)が禁断の同性愛を演じた映画「愛の言霊」(東京・渋谷Q−AXなどで27日公開)の完成披露試写会が、東京・北の丸公園のサイエンスホールで行われた。トークショーで徳山が「女の子の気持ちになれました」と言えば、齋藤も「たっぷり愛してもらえました」とこたえ、会場の爆笑を誘った。』
個人的な考えなのですが、この記事からは、現代の同性愛に対する認識がいくらか伺えるように思えます。少し私なりの考えや意見を述べてみようと思います。
まず第一に、この記事の筆者はなぜ同性愛を「禁断の」とわざわざ修飾したのでしょうか?
おそらく、「タブーの侵犯」といったテーマを前面に出すことで、同性愛を浮薄で陳腐なエンターテイメント化してしまう姿勢があるからでしょう。具体的には、同性愛を昨今流行しているボーイズラブ関連や近親相姦関連(例えば、「僕は妹に恋する」といった流行漫画から、義母やレズビアニズムといったものを題材にする官能小説)等といったものと等価値に位置づけていると考えられます。今、同性愛を語る側において軽薄化がますます進んでいるのではないでしょうか。同性愛と真摯に向かい合う態度、考える態度が著しく欠如しているのではないでしょうか。
第二に、徳山の発言「女の子の気持ちになれました」という発言には、とても同性愛者を演じた俳優の発言とは到底思えません。同性愛者のアイデンティティーを女性のアイデンティティーと同一のものと考える、同性愛者を女性に近い存在とする徳山の考えには、まさに同性愛者に対する誤認識が潜んでいます。もしかしたら、この誤認識は一般にも広く浸透しているものかもしれません。それにしても、同性愛者を演じきった俳優の発言にしては、あまりにも浅はかなものに思えませんか。
第三に、「会場の爆笑をさそった」という締めくくりです。まさに、これこそが同性愛差別の表れだと私は考えます。実際、同性愛者に嫌悪感を覚える人々も大勢いると思われますが、それ以上に、「笑い」の対象となっていることに問題があるのではないでしょうか。同性愛の当事者には真剣な問題であるものを、笑い飛ばしてしまうという態度には、まともに相手にもしようとしない態度があり、「差別」以上に酷悪なものに私には感じられます。
同性愛を扱った映画についての記事からも、多くのマスメディアを通した同性愛への認識が伺えると思われます。これらの悪辣な報道に対抗するには、どのような方法が有効でしょうか。拙文ではありますが、よろしければ皆さんのお考えも伺いたいと存じます。冗長な文章を大変失礼致しました。
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ルシフェル
- 07/10/7(日) 14:05 -
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<KDDI-HI36 UP.Browser/6.2.0.10.4 (GUI) MMP/2.0@05004030667937_va.ezweb.ne.jp>
ど う し よ う も な い。
そういう映画はそもそも女性向けに作られている映画が多くて
主に「アイドル同士の絡み」って言う感覚なんだと思います。
それに女の子の気持ちになれましたというのもあながち間違った解答ではないのでは?
男に愛されるという事を感じて、「あ〜 女性はこういう感覚なのか」と思っても
ストレートの場合は仕方ありません。
報道やマスコミは過大表現が基本です。
それに一々騒ぎ立てるのは、映画で黒人が殺されただけで
黒人差別と騒ぎ立てるようなものです。
確かにマスメディアには同性愛は禁断という認識がありますが、
実際日本で生きている人でそれを真に受けるという人は少ないと思います。
同性愛というものを詳しく知らない人間からしたら
確かに同性愛は想像もつかない「禁断」なのですから。
同性愛がネタになるのも仕方ない事です。
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ルシフェル
- 07/10/7(日) 15:08 -
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面白ければ全て良し
終わり良ければ全てよしBY小泉
<KDDI-HI36 UP.Browser/6.2.0.10.4 (GUI) MMP/2.0@05004030667937_va.ezweb.ne.jp>
貴重なご意見ありがとうございます。「愛の言霊」という映画は「アイドル同士の絡み」といった女性向けの娯楽であり、また徳山の発言も男性に愛されるという感覚を単純に表しただけの軽いものにすぎなく、過剰反応するべきではないということでよろしいでしょうか。
同性愛の形容に「禁断」という語を使用した点や、徳山の発言に対する私の意見は確かに過剰でした。差別という強烈な語を使う時には、やはり明確な対象がなければ単なる喚きになってしまいかねないですよね。つい過剰な反応に陥りがちなので、さらに気をつけたいと思います。
ただ、その試写会発表の席でなぜ「爆笑」が起こったのかという点が非常に興味深いです。心理学やクイア理論、ジェンダー論等といった学問的な視点からではなく、一般的な視点で見てみますと、この現象はどのように分析されるのでしょうか。
私の考えとしては、メディアに出演する同性愛者を売りにする、もしくは同性愛者と思われている人々(ハードゲイやピー子、おすぎ、山咲トオル等)といった人々が奇抜な格好や女性的な振る舞いをするのは、「同性愛者というものは“同性愛者らしい"振る舞いや容貌を帯びなければならない」という暗黙の了解のようなものが存在するためだと思われます。そこからさらに敷衍すると、同性愛者を一般的に“滑稽”で、“変”な「笑うべき対象」と位置づけたのではないでしょうか。客席にいた人々も、経験的に刷り込まれていたために、「爆笑」したのだと思われます。私は、「同性愛」が「笑うべき対象」と考えられ、貶められているような気がしてなりません。
よろしければ、また意見を頂ければと存じます。
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そもそも爆笑という表現が過大表現だと思います。
実際は笑いを誘った、くらいのものではないでしょうか?
愛想笑い、含み笑いなどやはりマスコミにもそれくらいのマナーはあります。
それを爆笑を誘った、と書いただけでは?
HGはそもそもゲイじゃないので、完全にゲイを侮蔑していますね。
オネエ系はゲイというよりもオカマ、という観点で紹介される事が多いです。
しかし一般的に大人はゲイとオカマの違いは分かっていますし、
あーいうタレントはそもそも笑いを狙っています。
だからこそ笑ってあげるのがマナー、エチケットだという考えだと思います。
昔キスだけじゃイヤという番組がありましたが、それに同性愛のカップルが出てきた事がありました。
そのカップルは「真剣に愛し合っている。養子縁組を組む予定」と真剣に言いました。
二人とも普通の男性でした。しかし、誰も笑う人、気持ち悪いと批判する人は居ませんでした。
つまり、これは出る側に真摯な態度があればいいのでは?
空気というものがあるのだから、爆笑が起こるのはマナーです。
相手への配慮という事だと思います。
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私見ですが、やはりこのような記事から「同性愛」というイメエジが作られていくのだと思います。つまり、同性愛であるから笑うのではなく、同性愛の言説が笑いと結びついているから笑いを誘うのだ、と考えられるからです。
しかし、その前に笑いというものにはいくつかの種類があることを認めなければなりません。ユーモアやウィット、シニカル、侮蔑、哀れみなど人は様々な感情において笑うのですから、一概にその記事の笑いが侮蔑に属するのだと決めつけるのは注意が必要です。逆に言えば、その笑いに侮蔑が含まれていないと決めるには早急かも知れません。
色々と説明は省きますが、私は同性愛者の歴史に自己弁護のための自己卑下が存在すると考えています。つまり、弱者が強者に対し、自分を守るために、強者に立ち向かうのではなくあえて弱者を強化するように振る舞うことが行われていたと考えるのです。そしてそこには、「誇張法による笑い」が生まれることとなった。この笑いが、同性愛と結びついたと考えられるのです。
ですから、まず同性愛と笑いが結びつけられるのは、同性愛者自身の「存在擁護」と大きく関わっているのではないかと思うのです。
しかし、先ほど言ったとおり、笑いというのはそこに内包する感情を多様に持ち合わせています。何より、同性愛と笑いが結びついた理由など考える必要性がないため、風化されます。
そのために、同性愛と純化した「笑い」が現存し、そのために同性愛を思わせる発言に笑いが生じるのではないでしょうか。
少々学問的になってしまいましたが、簡潔に言えば、同性愛を笑っているのではなく、同性愛につきまとう笑いが観客の笑いを誘ったのだ、と云うことになります。TKさんの言うように強者による「貶め」の発想も十分に考えられますが、同性愛者自身が作り上げた、つまり弱者が作り上げた理論がそこにはあるように、思えます。
最後に話は変わりますが、ここで発言されている、ゲイはゲイだとかいう、安易なニヒリズムはただ単に体裁を保つには格好良いかもしれませんが、何も生み出さないと言うことを自覚すべきだと思います。ゲイはゲイだというのは、リンゴはリンゴであるや木は木であると言えばそれにすぐ気付くように、なにも語ってはいないのです。非生産的なニヒリズムは発言すべきではありません。
大事なのは、ゲイは「いかにして」ゲイに「なったのか」を突き詰め、ゲイは「何故」ゲイで「あるのか」を考えることでは無いかと思うのです。
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 7.0; Windows NT 5.1; .NET CLR 1.1.4322)@125x101x54x92.ap125.ftth.ucom.ne.jp>
<DoCoMo/2.0 SH901iC(c100;TB;W24H12;ser350286006517131;icc8981100000320548847f)@proxy3105.docomo.ne.jp>
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JING
- 07/10/13(土) 11:23 -
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▼TKさん:
>映画「愛の言霊」完成披露試写会の記事からの引用です。
>『仮面ライダーカブト」の徳山秀典(25)と「轟轟戦隊ボウケンジャー」の齋藤ヤスカ(20)が禁断の同性愛を演じた映画「愛の言霊」(東京・渋谷Q−AXなどで27日公開)の完成披露試写会が、東京・北の丸公園のサイエンスホールで行われた。トークショーで徳山が「女の子の気持ちになれました」と言えば、齋藤も「たっぷり愛してもらえました」とこたえ、会場の爆笑を誘った。』
>
>個人的な考えなのですが、この記事からは、現代の同性愛に対する認識がいくらか伺えるように思えます。少し私なりの考えや意見を述べてみようと思います。
> まず第一に、この記事の筆者はなぜ同性愛を「禁断の」とわざわざ修飾したのでしょうか?
> おそらく、「タブーの侵犯」といったテーマを前面に出すことで、同性愛を浮薄で陳腐なエンターテイメント化してしまう姿勢があるからでしょう。具体的には、同性愛を昨今流行しているボーイズラブ関連や近親相姦関連(例えば、「僕は妹に恋する」といった流行漫画から、義母やレズビアニズムといったものを題材にする官能小説)等といったものと等価値に位置づけていると考えられます。今、同性愛を語る側において軽薄化がますます進んでいるのではないでしょうか。同性愛と真摯に向かい合う態度、考える態度が著しく欠如しているのではないでしょうか。
> 第二に、徳山の発言「女の子の気持ちになれました」という発言には、とても同性愛者を演じた俳優の発言とは到底思えません。同性愛者のアイデンティティーを女性のアイデンティティーと同一のものと考える、同性愛者を女性に近い存在とする徳山の考えには、まさに同性愛者に対する誤認識が潜んでいます。もしかしたら、この誤認識は一般にも広く浸透しているものかもしれません。それにしても、同性愛者を演じきった俳優の発言にしては、あまりにも浅はかなものに思えませんか。
> 第三に、「会場の爆笑をさそった」という締めくくりです。まさに、これこそが同性愛差別の表れだと私は考えます。実際、同性愛者に嫌悪感を覚える人々も大勢いると思われますが、それ以上に、「笑い」の対象となっていることに問題があるのではないでしょうか。同性愛の当事者には真剣な問題であるものを、笑い飛ばしてしまうという態度には、まともに相手にもしようとしない態度があり、「差別」以上に酷悪なものに私には感じられます。
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>同性愛を扱った映画についての記事からも、多くのマスメディアを通した同性愛への認識が伺えると思われます。これらの悪辣な報道に対抗するには、どのような方法が有効でしょうか。拙文ではありますが、よろしければ皆さんのお考えも伺いたいと存じます。冗長な文章を大変失礼致しました。
個人的な意見です。
私は、あくまで悪辣な報道だとは思いません。なぜなら、社会変化が起こるときはドラスティックに改革される場合と、徐々に浸透し、考慮され、変化し、全体として、まぁ正しい形で理解される場合の二種だと思いますが、同性愛に関する理解が、前者で行われることは、まず不可能でしょう。
では、後者ということになりますが、爆笑というものは、確かに不適切であると同時に、当事者の不快感を誘うと思います。しかしながら、徳山さんや斎藤さんが”そんな役をできる異常な人間”として認識されたわけではありません。つまり、同性愛をテーマとして考えること・遊ぶこと自体がタブーであったものから脱却しつつあるといえるのではないでしょうか。
確かに、一応私も演劇をある程度続けてきましたが、女性の気持ちになれた。というのは、誤用であると考えます。しかし、求められたいと求める側になった気持ちを端的に表現するために用いたのであれば、なかなか辛辣で面白い比喩だとは思います。おそらく、前者でしょうが、あくまでトークを盛り上げる為の発言である以上、そこまで目くじらを立てる必要もないと思います。
さて、タブーに関しては、現在のキリスト教から見れば確実にタブーです。しかも、信条上の理由であるために、倫理的に報道の仕方が間違いであっても、三大宗教の1つであるキリスト教の観点から見れば、正しいという矛盾を生みます。しかも、報道というものは自由である。という考えが定着しているので、表現の仕方を批判するには、それが誤りであると大多数が認識しない限り不可能といえると思います。
ただ、私が恐ろしいのは”近親相姦”と”同性愛”を同列におくことです。近親相姦は、非常にハイリスクであるといえます。催奇形性の可能性が高いからです。しかし、同性愛者は、確かに現在は社会的にも問題があります。モラルがなさ過ぎるからです。ですが、それ自体が同性愛の根底ではないと思います。つまり、他者危害の原則に触れるか否か、が問題になるのではないでしょうか。
笑いの対象⇒正常な対象となるプロセスは意外に多いです。本来は、殺してもいい対象⇒同列の中でも異常な対象⇒笑いの対象⇒正常な対象となるとは思いますが、この例をたどって言ったのが、身体・精神のいずれかに、慢性的・先天的な疾患を持つ方々ではないかと思います。
報道に対するには、その報道の対象になった集合以外の人間からの、大多数の批判が必要になると思います。である以上、現状でこの報道を批判することは不可能ですが、将来的に不可能であるとは考えません。実際、この記事を見て不快感を感じたのは、同性愛者のみではない。というのが、その理由として挙げられるのではないでしょうか。 JING
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows NT 5.1; SV1; .NET CLR 1.0.3705)@220.110.183.237>