子がいない者と子がいる者を比較すれば、後者の方が社会や国家の長期の安定をより気にかけるだろうということは推測でしかないが、利潤に対する行動でいえばありえる推測だろうと思う。
しかしそれをするのは、「子の将来がかかっている」という利益があるからで、そうした利益に対する動機がないのであれば、最重要関心事が遠い将来の安定ではなくおのれの生活になるのも当然だ。どちらがいいとか悪いという話ではない。
もし、子のいない者がおのれの生活に最重要の力点を置くことがエゴイズムであるならば、たかだが自分の子供の将来のために、利益を共有しない者をも巻き込もうとすることもエゴイズムだろう。
立場が違えば最合理の国家像が違ってくる、ということだ。
もし、国家組織そのものの利益から考えれば、少子化に対して何らかの手立てを打とうとするのは必ずしも非合理ではないが、少子化が問題になるのは、現在ある形での国家像を維持しようとするからで、その制約を外せば、少子化対策をとることが必ずしも国家が存続してゆくうえで不可欠な措置とは言えない。
中国人が人口の過半数を占め、中国語が公用語になったとしても、日本国という国家がある限り、日本国は存続する。
中国系の子であっても、大和民族系の子であっても、子のない人にとってはどちらでも自分の子ではないことに違いはないのだから、どうでもいいという考えもあるだろう。僕は中国系が将来過半数を占めるのは嫌だが、フィリピン系やインドネシア系が増加しても別に構わない。
彼らや彼らの子孫が社会保障の費用を賄ってくれるならば、多額の補助をかけても充分な効果が得られそうにない大和民族の子孫に拘る理由はまったくない。
どのみち僕の子じゃないもの。