四月から新学期が始まってはやくももう六月になろうとしていますが、五月病が抜けない今日この頃、皆様はどうお過ごしでしょうか?大学四年生ともなると、やるべき事が目の前からどんどんやってくるにもかかわらず、それを指ではじいてしまう最近では、同じ様にやる気の無い友人たちが話しかけてくるのですが、最近の話題はもっぱら恋の悩みであり、もう春は終わるけれどと思いながらも耳を今日も傾けています。私はまあ人の恋愛について聞くのはいやだとか、むかつくとかそんなことは思ったりしないので、とりあえず聞きます。質問はしません。あちらからどんどん喋ってくるので。
「そいつさあ、目がさあ」
「うんうん、目がどうしたの」
「深えんだよ」
「そっか、深いんだね」
まるでカウンセリングのような、友人同士とは思えない会話。そんな話を二十分も続けていますと、相手の方も云って満足するらしく、段々と自信なさげな(といっても、その友人はかなり質が高いのでそれまでに何度も告白されているような男でして何を自信なさげとはとそこだけはつっこんでいます、心の中で)顔をしていたのが明るくなってきますので、そこで一言、
「そうだねえ、君の答えはもう決まっているんじゃないかな」
と云う改心の一撃を与えますと、彼の目が輝いてきて、
「ありがとう!」
の一言を笑顔で云う。こんなかんじで話は終わったのです。
さて、その後友人が出て行ったときに思わず溜息が出てしまったんですよ。人の恋愛話を聞くのは面白くないことは無い、けれどもそういう話を聞くたびに、なんとも胃の辺りがきゅっと締まる心地がしてくる。どうも、よろしくない。さっきまで飲んでいた珈琲も急に飲む気がしなくなる。
「あの人も昔はねえ、ああいうこと人に喋るような人じゃあなかったのにねえ」
なんともしみじみとひとりごちてみる。
思えば、付き合いもはや四年、長い付き合いだ、今あってない高校の時の友達よりも長くなってしまったと、部屋から出て歩きますと、後輩のDを見つけました。忙しなく歩く姿はなんとも動物のようで、私もよくかわいがっています。彼も私の事を好いてくれている。
しかし、このときは足を止めて思ったのですよ、彼には彼の人生があり、私には私の人生がある彼の人生に私の人生を踏み込ませるのは本当に良い事なのか、その事で彼は私に影響を受けるのだが、それは果たしていい事なのか、と。私はこれを仮に「諦めの哲学」と呼んでいるのですが、諦めるというマイナスの行為から、プラスの状況が出てくるのではないかと考え、私はこの時方向をくるりと変えてまた部屋に戻ったというわけです。
長々と書いてしまいました。特に問題性を含む文章ではなく、ただなんとなく書きたいと思って書いた駄文です。