ボドネスさん回答が遅れました。ようやく仕事から解放されました。
なぜ人を殺してはいけないのか という問いはひところ流行りましたね。
ひんしゅくを買うかもしれませんが、あえて私見を述べさせてもらうと。
人を殺してはいけない理由は論理的にはないと思う。
論理的とは、よくよく考えてみればというほどの意味です。
ただ、貴君も承知していることと思うが、「そういうことを問う自体が間違って
いる」といった反応が大多数です。
よくいわれることではあるが、この「なぜ人を殺してはいけないか」ということ
そのことを語ること・話題にすること、すなわち顕在化すること自体が
タブーだからです。
体制側は、大多数の人にそのような疑問を抱かせないようにすることによって、その威力を
発揮しますからね。
例えば、ある宗教で布教を目指して、その宗教に狂信しているひとにとっても
そのことに関する議論を嫌うといっしょで
信じることに対する疑問を抱かせないことによって、その威力を維持することが
できるのであるからです。
つまり、「ほんとうのこと」を語ることは厳しく禁じられる風潮だということです。
仮に[ほんとうのことを」語るときは、そこに希望があることを
ほのめかしてのみはじめて語ることを許されるのです。
したがって、「なぜ人のもの(金)をとってはいけないのか。」
「 なぜ人を殺してはいけないのか。」という問いに
ほんとうのことを語ることは、悪意ある態度、ふざけた態度としか思われない。
同じような問いで
なぜ自殺してはいけないか?という問いも実は関心は惹かなかった。
だがむしろこの問いこそ、今日本では年間自殺者3万人を超え、さらにはうつ病・ひきこもり・自殺予備軍が激増している現代日本でははるかに現実的な問いであるように思う。
しかし、世間の大多数は「そう問うこと自体間違っている」という反応がかえって
くる。
ホドネスさんも私にこのような問いをしたのは、
おそらくこのような問いを深刻にとらえない者、いや嫌悪する者さえこの地上には
おびただしく生息していることに
辟易してのことだと思う。
私にだって、「あなたは、なぜ自殺しないで今日も生きているのか?」と問われたら
まともに答えられないであろう。
たとえいかなる答えを提起しても、それが明確な回答であればあるほど
嘘くささが残るであろうからです。
つまり、生きつづけることには、そのひとでなければわからない見渡せないほど
の錯綜した原因があるのに、
明確なひとつあるいは、数個の原因があるはずという思い込みそのものが
おかしいからです。
このことは「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いに ひとつの答えを導くこともおかしいということにも通じます。
またひんしゅくを買うことをあえて言えば。
幼い子供や青年が難病や事故や災害で死ぬと、きまって親や恋人や友人は「これから楽しいことがたくさんあったはずなのに」と嘆く。
だが、彼(女)の前途に開ける人生には楽しいことばかりでなく、苦しいことも限りなくあること、いやむしろはるかに苦しいことのほうが多いことは誰でも知っている。
結婚式の直前に娘が殺害されたとき、「花嫁衣裳を着せてやりたかった」と泣き崩れる母親の気持ちは心情的にはわかるが、花嫁衣裳を着た後、彼女にどんな不幸が待ち受けているか誰にも予言できない。
つまり、わたしたちは人生が楽しいから生きているわけではない。
自殺したい者は楽しいはずの人生なのにみずから絶とうとする誤りに陥っているわけではない。
このことは明晰かつ判明な事実です。
このことは、この人生が楽しいこと(?)をいくら説得しようと、一般に自殺
しようとする者を思いとどまらせることができないことからもわかります。
誤解を恐れず申しあげると、
人生ある程度たのしいことはわかっている。しかし人生はその楽しいはずのことも含めて、もううんざりなのだ。
しかし私は自殺を推奨している訳ではありません。
自殺は残されたひと(親・恋人・友人)を悲しませるからです。そして周囲の者が
いかに後悔と自責の地獄に突き落とされ、何か月も泣き暮らし、何年も立ち直れないほどのショックを受けるからです。
人生は不幸に満ち溢れています。幸福なんて錯覚ではないかと訝るくらいに、そして度し難いほどに
運命に左右され翻弄されます。残酷なほどに不平等です。
それでも私は人生きるに値しないとか・人生は不可解なりとか・人生は無意味であるという理由で自殺するひとの心情には与みできません。
人生不可解なら、人生なんぞ不可解に決まっているのだから、皆自殺しなきゃならない。
人生は生きるに値しないとか無意味なら、ならば
死ぬと価値や意味が与えられるのか?
そうではないはずだ。
所詮人生なんてものは空しいのだから、ぶざまでも生き抜くことが大切だと
私はつらつら考えますが。
自分でもよくわからないのです。