> 私個人の場合であっても、そのとおりだと思います。
> なんでなのかなぁ?と思いますが、それが当たり前になりつつあるのでしょうか。確かに、不器用な人が、ありがとう・ごめんなさい。の類を使えないことは、おそらく昔もあったと思います。しかし、そういった人たちも、誠意によってさまざまに表現してきたと思いますが、現在は、その誠意が完全に欠落していると私は思います。
> おそらくは、謝らなくても、お礼を言わなくても、不自由がない社会になりつつあるのではないでしょうか。実際はそうではないと思いますが、少なくともそれを見逃して、陰口をたたく程度の社会になっているのではないかと思います。 JING
あなたは聡明な方だから、いつもコメントを楽しみにしています。
私の回りには、そんな人一人もいないんだよね。私は挨拶とか感謝の言葉とかは、使用者・発信者がそうしたい(言いたい)と思ったときだけ使えばいいと思っているのだけれど、それが普遍性を得られるかどうかは解らないし、恐らく難しいと思う。だけれど私はどうしても気持ちの籠ってない嘘の言葉を吐くのはいやだし、相手にもそれを求めてしまう。でも殆どの人は波風立たないよう、物事を円滑に進めたいだろうから、慣習(ルシフェルさん等が云っていること)に基づいて発言するだろう。それを否定はしないし、無論出来る立場にはない。けれどそういった形式的な挨拶や感謝の言葉の中にはきっと、誠意の欠片もないものが含まれていると思う。保身の為の打算だったり、ビジネスの為だったり、そういった狡猾で醜悪な言葉はどうしても認めたくない。それでも私でさえ、時にはそんな言葉を吐いてしまう。私は自己嫌悪に陥りながら、然し保身の為にそうせざるを得ない。それは悲しいことだと思っている。
口でならなんとでも言える。でも気持ちや心は誤魔化せない。だからそういう劣悪な挨拶と誠意のこもった美しい挨拶との違いがわからない方達に苛立ちを感じている。誠意がこもっているか否かは別にして、「挨拶」そのものが出来ない人間は私の回りにはいないし、「感謝や謝罪の言葉」が出てこない人間もいない。ルシフェルさん等は内容より形式にこだわっている方々のようだから、私は嘆かわしいことだと憂えている。ともすればルシフェルさん等が発言している内容は、個人の思想の自由をも侵犯しかねないので、どうしても私は賛同することが出来ない。挨拶や感謝の言葉が出てくるときは、必ずそれに伴う感情や気持ちがあるべきだと云っているわけだから。